CDのがPVの1000倍良い。


ACIDMANの音楽に関して常々私が思っているのは、彼らの音楽からは、ある程度の覚悟を要求される。具体的には、「ながら聴き」がなかなかできない音楽だと考えている。彼らの音が「聴け」というから、ACIDMANの音楽を聴くためだけの時間を設けて聴く。決して休日の昼下がりにコンポから流しっぱなしにするような音楽ではないし、朝のバタバタした時間にかけるような音でもない・・・。以前にここでも書いたが、彼らの音楽(特に激しいもの)を聞くと、私の周りの世界が飛ぶ。意識が完全に違うとこに行ってしまうのだ。彼らの音と歌詞とひたすら向き合いたいという自分の欲求があり、そして音楽がそれを求めてくる。彼らの世界観に向き合おうとするとどこか別のところに強制的に連れて行かれるのだ。だから、アルバムなどは、聴き終わった後に少し疲れる。心地よい疲れに満たされた気持ちになる。


今回のシングル「ある証明」もそういうふうに聞いた曲だった。普段の生活の中で、シングル聞くためだけに、時間をつくる。ACIDMANモードに気持ちを切り替えて、ヘッドフォンで聴いた。PVで聴いたことあるはずの曲なのに全く印象が違う。曲が進むに連れて、心象風景は、「光あふれる世界」へと変わり、そして周りの世界が一気に飛んだ。いま世界が終わっても私は後悔しない。それぐらい気持ちいい曲。光の中を速い速度でグングン進むような感覚があって、体と心が繋がっているような深いところがこの音楽を聴いていたいという。


昨年の夏フェスで彼らの音に出会い、その後、熱にうなされるようにACIDMANのCDとDVDを買い集めた。そして彼らの音源に出会う度に、興奮した。彼らがかき鳴らす轟音の先にある感動的な展開、落ち着いた音の底にある確かな技術に感動する。そして、彼らの音楽ともと向き合いたいと願う。大木伸夫という「詩人」の描く世界の美しさ、独自性に徹底的に惹かれている。何度も聞いた曲、ふとした瞬間、詩の世界と通じて表現に泣きそうになる・・・。



彼らのかき鳴らす音がどれだけ圧倒的なことか・・・。
どうやったら、同じ年で、この世界観を描けるのか?不思議にさえ思う。彼らもキン消しを集めて、びっくりマンチョコを買い、水曜日にはドラゴンボールを見て、中学1年でスラムダンクが始まった世代だろう。私は、同学年の彼らを心から尊敬しているし、彼らの音に出会えたことに感謝している。


本日はミーハーネタ0で。